030117 あれからもう8年

あの日、自分の部屋の天井に押しつぶされた彼は、今、どんな気持ちでいるのだろうか。

人は生物学的な生を終えてしまうと、それ以降はその個人を知る人の心の中でのみ生き
ていくことになる。これを生きているというかどうかは、難しいところだが、すくなく
とも私にとっての彼は、葬式にも行っていないので彼がいなくなってしまったのかどう
かは、いまだよくわからないのだ。

8年前の今日に限らず、毎日たくさんの人が死んでいっている。だから、本当に関係の
ある人たちと、数字が必要なマスコミ以外にはこの日を特に祈念する必要もない。だが、
少なからずあの地域に関係のある私も含めて、皆それなりに、偽善であるとか同情であ
るとかを越え、何か心にもやもやとした感情が浮かんできてしまうのも事実だろう。

私にとってそのもやもやは、現時点では次のような事なのだと思っている。

最初に述べた「彼」は8年前の今日の日の直前、非常に前向きに頑張っているという内
容の手紙をくれたばかりであった。大学受験には失敗したが、何とか郵便局員に採用さ
れ、夜間ではあるが大学にも入れ、彼女もできた。毎日楽しい。そんな内容であった。

しかし、膨大な犠牲者を伝える新聞に彼の名前も並んでしまっていた。どうしても地元
のことであるので、ほかにも知り合いの名前が並んでいたのだけど、直前にそのような
手紙をくれた人とは、私に与えるインパクトは大きく違った。不公平かもしれないが、
それが事実なのだ。

彼の死は、人は自分の行いの善悪によらず、人生のどのようなタイミングとも関係なく、
圧倒的な大きな力の前に何もなさないうちに、あらゆる可能性を奪い取られるかもしれ
ない、という当たり前のことを毎日だらだらと逃げ回っていた当時の私に否応なく突き
つけた。

彼の死はとても残念な事だとは思うが、それをもって彼の分も頑張ろうとか、自分も
しっかりしなければとは絶対に思わない。それは、彼の人生に対する冒涜であるし、ま
た、自らの人生に対する責任の回避であると感じるからだ。自分の人生はつまらないも
のであれなんであれ、塗りつぶしていくのは確固たる自分の意志であるべきなのだ。

こういったわけで、私は毎年、平成7年兵庫県南部地震による阪神大震災が起きたこの日
には、「いつ死ぬかわからない、悔いの無いように生きていこう」と決意を新たにする。


結局、彼が今何を考えているかは、まだわからない。 このことについては、また来年の今頃考えてみようと思う。




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